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2016年02月15日

武侠小説 チンギス・ハーンの秘伝書 [Kindle版]



武侠小説 チンギス・ハーンの秘伝書

 源義経が残した武芸と兵法の秘伝書「笹竜胆宝典」がチンギスハーンの手元にあった。一三四七年の元朝末期。不穏な空気の漂う福建を舞台に、江湖の好漢たちが秘伝書をめぐり、死闘を繰り広げる。源義経=チンギスハーンなのか?中国を舞台にした歴史ファンタジー小説。


 チンギスハーンは、源義経ゆかりの武芸と兵法の秘伝書「笹竜胆宝典」を日本の京都、鞍馬寺に届けよと二人の福建人に託す。しかし二人は、笹竜胆宝典を盗んで極意を悟り、福建の武夷山にて武夷派という武術門派を創始してしまう。武夷派は江湖で一流の武術門派になるが、その極意が笹竜胆宝典にありと江湖に知れたことから、笹竜胆宝典を巡って血みどろの争いが起き、武夷派から笹竜胆宝典が失われる。
 時代は下り、一三四七年、至正七年の夏。福建には反元復宋の志を抱く者があふれていた。
 秘密結社紅陽会はその急先鋒であり、総舵主の方克鎮は、武夷派、邪蓮教らと共同戦線を結成して福建を元の支配から解放せんと志していた。
 武夷派の一番弟子平日龍は、福州で行われる武術大会「武林制覇」に赴く。平日龍は、笹竜胆宝典を手に入れて、没落した武夷派を中興することを志していた。
 仙霞嶺に拠点を置く邪蓮教は、かつて武夷派を襲撃し、笹竜胆宝典を奪った。現在の邪蓮教教主、楊炎魔が所持しているが、娘である楊理亜はそれを知らない。楊理亜も武林制覇に赴き、平日龍と出会い、意気投合する。
 一方、王猛虎は、反元組織をつぶすために元朝が創立した秘密結社蒼狼幇の総舵主を務めており、笹竜胆宝典の行方を追っていた。武林制覇は江湖の好漢たちを集めて一網打尽にしようと、王猛虎が仕掛けた罠だった。王猛虎が圧倒的な武功で、武夷派、紅陽会、邪蓮教を襲撃する中、平日龍らが立ち上がる。

(冒頭部)
 武侠小説 チンギス・ハーンの秘伝書
                           劉波兒

 序

 六盤山一帯に張り巡らされた天幕群の中でも、一際大きな天幕に、福建人の郭玉和と方滄海が呼び出されたのは、一二二七年八月の蒸し暑い夜のことである。
 天幕の主人は、二人が来たのを見るや、よろよろと寝台から起き上がり、小間使いの者たちを追い出してしまった。煌々と明かりが灯され、金銀類で豪華に飾り立てられた、ただ広い天幕。モンゴルの荒野から身を起こし、西はホラズム朝、東は金朝の領域に食い込む広大な領土を勝ち得た草原の蒼き狼にふさわしい天幕である。
 郭玉和と方滄海は、天幕を入ってすぐの位置にひざまずき、中央奥の寝台に腰かける主人――チンギス・ハーンから言葉がかかるのを待った。小間使いの者たちが傍らを通り過ぎて、天幕の外に出てから、しばらく経ったが、一向に声がかからない。寝台の敷布を擦るような微かな音がするだけである。
 郭玉和と方滄海は、意を決して、恐る恐る、わずかに顔を上げて見やると、ハーンは、震える手で寝台を叩いていた。萎びれて、骨の浮き上がった手で手招きしているように見える。郭玉和は、ハーンが己たちに近くまで来るように促しているのだと悟り、方滄海の背を軽く叩いて促した。二人は、腰を低くしたまま、忍び足で、ハーンの足元まで歩み寄り、ひざまずいた。
 ハーンは、寝台にあっても襟を正し、威厳を保とうとしている。だが、ハーンの手も膝も微かに震えているのを郭玉和は見逃さなかった。
「堅苦しくするな……顔を上げよ」
 小鳥の羽音のような声に、郭玉和は、愕然とした。あまりに弱弱しい。何十万もの騎兵たちを叱咤して、草原を駆け巡った蒼き狼の勇ましい声の面影はみじんもなかった。あまりの痛ましさに、郭玉和は顔を上げることができなかった。方滄海もひれ伏したままである。
「誰しも、老いと死から免れることはできぬ……わしは草原を駆け回ることに夢中になるあまり、そのことを忘れておった……」
「ハーン……」
 ようやく顔を上げた郭玉和は、かける言葉を紡ぎ出すことができなかった。
 寝台に腰かけるハーンは、衣装こそ豪華であるが、頬がこけて、枯葉のような、触れば今にも崩れそうなほど萎びれた肌である。目つきだけは、炯炯としていたが、却って、体の衰えぶりを際立てるばかりで、痛々しい。
「そなたは、郭貫、字は玉和。それから、そなたは、方清、字は滄海。二人は宋の福建を出て、シルクロードを西へと旅している途中で、我らと出会い、以後、行動を共にしてきたのだったな」
「はっ!」
 郭玉和は抱拳しながら目を伏せた。感激のあまり己の瞳が潤んでくるのを禁じ得なかった。ハーンほどのお方が、己たちのような末端の人間の名を正確に覚えていて下さるとは望外の喜びである。
 方滄海も抱拳して目を伏せていた。
「福建人は昔から、外に出るのが好きだそうな……。陸路を行くばかりでなく、海路をも行くとか?」
「はい。福建は背後には高い山々が迫り、眼前には大海原が広がり、平地の狭い地域です。田畑を耕し、あるいは放牧に使える土地は限られています。そのため、必然的に外に出て行かなければならないわけで、とりわけ、海に出る者たちは、数多くいます。海外との交易も盛んで、宋の他の地域とは雰囲気がだいぶ違います」
「そなたたちは陸路を辿ってわしと出会ったわけだが、海路に出るつもりはなかったのか?」
「もちろん、海の向こうの国にも興味があります。ですが、私どもは、ハーンの名声を慕って、一目お会いしたいと思ったのです。ハーンにお仕えすることが、私たちの喜びです」
 ハーンがふとため息を漏らした様子だったので、郭玉和は顔を上げた。寝台脇の燭台からの明かりに照らされたハーンの顔に影ができ、より一層老けて見えた。眉が垂れ、老境を悟った物寂しげな顔である。
「わしは間もなく死ぬ。そなたたちがわしに仕えていられる時間はそう長くない。わしは広大な領土を得た。領土を受け継がせるべき子供たちもしっかり育っている。憂うことは何もないように見えるかもしれぬ。だが、一つだけ心残りなことがある。それをそなたたちに託したいと考え、今宵、呼び寄せたのだ」
「何なりとお申し付けください」
「二人には、日本へ渡ってほしい」
 郭玉和と方滄海は、目を丸くして顔を見合わせた。福建人の二人にとって、大海原を越えた先にある島国――日本は、比較的身近な存在であるが、草原の只中を駆け巡っていたハーンが日本のことを知っていることに驚いたのだ。
 ハーンは、枕元に手を伸ばし、分厚い書物のようなものを包んだとみられる赤い錦の包みを引きよせた。
「これを日本に届けてほしい。日本の都、京都の北にある鞍馬寺と言う寺に奉納してほしいのだ」

 ※

 西湖の湖畔を取り巻く木々が紅葉し、鏡のような湖面も赤く輝いていた。
 六盤山の天幕群を出発してから数か月にして、郭玉和と方滄海は、南宋の臨時の都となっている杭州へとたどり着いた。
 杭州城外、西湖を見渡すことができる小高い丘に建つ飯店の二階に宿を定めた二人は、窓から西湖の静かなさざめきを見下ろしながら、紹興酒を飲み交わした。
「ようやく、故郷に帰ってきた気がする。そう思わないか?滄海」
 郭玉和が杯をぐいと煽ると、方滄海もうなずいた。
「全くだ。ただ広い草原を馬で駆け巡るより、江や湖を舟で漂う方が俺は性に合っているようだ。やはり、江南に住む者は舟が合うのだと今回の旅で気が付いた」
「間もなく、我らは、大船に乗って、大海原へ出ることになる。飽きるほど船に乗れば、また、馬が恋しくなるかもしれないぞ」
 郭玉和が微笑みながら瓶子を傾け、二人の杯に紹興酒を注いでから、口を継いだ。
「それにしても、ハーンが日本のことを知っているばかりか、京都の名前も知っているとはなあ。おまけに、京都の北に鞍馬寺という寺があるなど初耳だ。滄海はどうだ?」
「俺も鞍馬寺などという寺の名前は初めて聞いた。俺たちでさえ、日本の地名で知っているのは、博多くらいだ。ハーンは、どうして、それほど詳しく知っていたのだろう。日本に行ったことはないだろうに」
「それも謎の一つだ。もう一つの謎は、何故、一冊の書物をわざわざ、日本に届けようとしていたのかということだな」
 郭玉和は首を傾げながら、卓に置いた赤い錦の包みに目を注いだ。
 二人は、六盤山を出発して、杭州に至るまでの道中、一度たりとも、錦の包みを開いて、中に納まっている書物を目にしたことはなかったのだ。
 ハーンは、どのような書物であるか、明言しなかった。ハーンが「これはわしの……」と何事か口にしようとしたところで、激しく咳き込み始めたため、聞くことができなかったのだ。
「京都の鞍馬寺へ……頼んだぞ……」
 それが、二人が耳にしたハーンの最期の言葉である。ハーンが亡くなったのは、二人が天幕を辞してから幾ばくもしないうちだったようだ。
「郭兄。本当に、日本に行くつもりなのか?」
 方滄海がやや緊張した面持ちで切り出してきたので、郭玉和は首を傾げた。
「もちろんだ。ハーンの遺命に逆らうことはできない。日本に渡るために必要な金銀も、余るほどたっぷりといただいてきたのだ。途中で投げ出しては、我らは盗賊と同じになってしまう」
「俺は、日本に渡る前に、中身を一目確認した方がいいと思う。日本に渡るかどうかはそれから決めた方がいいと思う」
「おい!滄海、何を言い出すんだ?もしかして、大海原を行くのが怖いのか?」
 郭玉和がせせら笑うと、方滄海は首を横に振って、真剣な眼差しを郭玉和に向けた。
「大海原が怖いわけじゃない。だが、たかが一冊の書物のために、日本に渡るなど正気の沙汰ではないぞ。しかも、日本でこの書物が届くのを待っている人がいるわけでもない。ハーンが寺に奉納したいというだけだ。おまけに、この命令を受けたのは我ら二人だけ。我らがハーンの遺命を成し遂げたかどうか監督する者など一人もいないのだ」
「君子たる者、主君への忠誠を貫かねばならぬ。ハーンは黄泉から我らの行いを見ているのだぞ!」
 郭玉和がそう一喝して、錦の包みに手を伸ばそうとするとそれより先に方滄海が奪い取っていた。
「おい!どうするつもりだ!」
 方滄海は呆れた顔で、ため息を漏らした。
「俺たちは、モンゴルの幕舎を出た時から、もはや、モンゴルに仕える身ではなくなったのだ。おまけに、ハーンは既に亡くなった」
「だからと言って、遺命に背いてよいわけではない。その書物を届けるまで、我らは、ハーンの忠実な部下なのだ。さあ、俺に返すがよい」
 郭玉和が立ち上がって方滄海の手から錦の包みを奪い取ろうとしたが、方滄海は、身を翻して避けた。
「おい!盗む気か!」
「郭兄!落ち着け!俺は、中身が何なのか確認しようと言っているだけだ。盗むつもりなどない!よく思い出せ。ハーンは、我らにこの中身を見るなとは命じていないのだぞ!」
 方滄海が部屋から逃げ出す様子はないので、郭玉和も一息つくと、
「確かに……中身を見るなとは言われていないが……」
「この包みに係わる謎は三つ。最初の二つは、ハーン亡き今となっては知ることはできないが、三つ目の謎、中身の書物には何が書かれているのか?これは、たった今、包みを開けば明白になるのだぞ」
 方滄海が包みの封を解こうとしたが、郭玉和は慌てて制した。
「だが、ハーンは俺にこの包みを手渡す時、中身を開けようとしなかった。包みのまま手渡してきた。ならば、中身を開けるなという意思表示ではないか?」
「違う。ハーンは、あの時、包みを解く力さえ残っていなかったはずだ。開けなかったからと言って、開けるなという意図だったとは限らない」
 方滄海は、もはや、包みの封を完全に解いてしまっていた。郭玉和も、「都合のよい解釈をするな!」と唸りながらも、包みが解かれてゆくのを凝視せずにはいられなかった。
 そして、赤い錦の包みは完全に解き放たれていた。
 豪華な拵えの分厚い書物であった。銀糸を織り込んだような純白の錦布地で覆われた表紙である。よほど大切に扱っていたのか、黄ばみは全くなかった。題目はなかったが、その代わり、何かの印のような紺色の刺繍が表紙の中央に施されていた。郭玉和と方滄海には、その印が何であるかは、理解することができなかった。
 ハーンが自らの印として利用していた九つの房をつけた白い軍旗に何となく似ていると感じただけである。
 その印は、笹竜胆――源氏の家紋であった。
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