(冒頭部抜粋)
障害年金の不正受給 即独新米弁護士の事件簿2
大滝七夕
序
「あなたは、本当に耳が聞こえないんですか?」
末永穂香は訝しげに机を挟んで向かい側に座る男を見やった。
濃い目のサングラスをかけた背の高い二十代前半の男である。高級スーツにピカピカのワニ革のベルト、濃紺のシャツを着て、襟元は第二ボタンまで肌蹴ており、首元に金のネックレスがちらついている。おまけに、面談中だというのに無遠慮にタバコをふかしている。
どう見ても、堅気の男には見えないし、生活保護が必要なほど困窮しているようにも見えない。
「姉ちゃんよ。余計なことは聞かねえで、早く書類を書いて出してくれよ」
穂香は男の口の動きを読み、男が、おおむね、そう話したのだと察した。
「千野謙太郎さん。あなたは、今、生活保護を受けているとのことですが、そんなスーツをお召しになって、本当に生活保護が必要なんですか?」
「口を閉じていれば美人なのに、ごちゃごちゃと、うるせえ姉ちゃんだな」
「質問に答えてください。疑問点がいくつもあるから、今日、事務所までお越し願ったんです」
「姉ちゃんこそ、耳が聞こえないのに、俺の話していることが分かるのか?」
「読唇術です。口の動きから、あなたの話していることが、ある程度、分かります」
「この服はなあ。昔、仕事が儲かっていた時に着ていた奴だよ。服はこれしかねえんだよ。まさか、この服を売って裸になれとでもいうのか。それとも姉ちゃんは俺の裸を見てえのか?見たけりゃ、見せてやるけどよ。その代わり姉ちゃんの裸も拝ませてもらうぜ」
やくざ風の男――千野謙太郎が天井に向かって紫煙を噴き上げるとけらけらと笑った。
穂香は、千野が破廉恥な言葉を口にしたのだと悟り、顔をしかめながら、視線を手元のファイルに落とした。
これまでの記録によれば、千野は約一年六か月前に突然、突発性難聴――感音性難聴となり、医師から治療は不可能だと診断されて、身体障害者手帳を申請した。
感音性難聴による聴力レベルは左右の耳共に一〇五デシベル。ほぼ失聴した状態であり、身体障害者等級表による級別は二級である。
不幸なことに、失聴する前後に千野は職を失い、貯金も尽きてしまった。生活に困窮した彼は、身体障害者手帳の申請と同時に生活保護の申請も行った。今は、再チャレンジの家という低額宿泊所で最低レベルの生活を営んでいるのだという。
失聴から一年六か月経過した今でも、聴力は回復しない。そこで今回、障害基礎年金の申請を行いたいということで、七村総合法律事務所に所属する新人の社会保険労務士末永穂香に申請の代行を依頼したというわけである。
千野が医師の診察を受けて治療不可能な感音性難聴だと診断された日を初診日と言う。その日から一年六か月経過してなお、症状が固定していれば、その日を障害認定日と言い、障害年金の申請が可能になるのだ。
聴力レベルが左右の耳共に一〇五デシベルと言うことは、障害年金の障害等級認定基準では一級に該当し、障害基礎年金としては最高の額――今日の年金額では年に九十七万五千百円を受け取ることができる。この年金は非課税で、まだ、二十三歳の千野は、介護保険等が差し引かれないため、そっくり受け取ることができるというわけだ。
「これでようやく、煩わしい生活保護ともおさらばできるんだ。とっとと書いてくれよ。なあ、姉ちゃんよ」
千野が凄みのある顔を突き出してきた。穂香は畏怖したわけではないが、煙草臭さに思わず、身を後退させた。
千野は、障害基礎年金の受給と引き換えに、生活保護は返上することになっている。
と言うのも、障害基礎年金と生活保護の支給額がほぼ同額であるため、その必要がなくなるからだ。
それに、障害年金の方が有利な面もある。生活保護の場合には、ケースワーカーが定期的に家庭訪問してくる。生活の実体を調べるためであるが、若い者になると仕事を探しているかどうか根掘りはぼり聞かれるため、わずらわしいという面もある。が、障害年金の受給者にはケースワーカーによる訪問はない。年金を何に使おうが一切咎めはないし、仕事を探しているかどうかなど聞かれることもないのだ。
聴覚障害の場合は五年に一度、障害の程度を確認するための定期検査を受ける必要があるが、症状が固定している限り、一生、年金を受け取り続けることができる。
「私は毎日、再チャレンジの家を訪れています。が、あなたに会ったことは一度もありません。あなたは本当にあそこで暮らしているんですか?」
「姉ちゃんが来るときは、仕事を探しに行っているんだ。一日中、引き籠っていろとでもいうのか?ごちゃごちゃぬかしていないで、書類を書けよ!」
千野が机をゴツンと叩いた。ワンフロアの事務所内にその音が響いた。机の振動から穂香にも、その音の大きさが想像できた。きっと所長にも聞こえたに違いないと穂香は思った。
そして、その予想は当たっていた。
いくらもしないうちに、所長の七村力哉が衝立の向こうから白杖を突きながら、ゆっくりとした足取りで入ってきた。
背丈は千野と同じだからそれなりにある方だ。四十代の後半ながら、贅肉のないすらりとした体つきをしており濃紺のスーツと白シャツ。地味なネクタイをしっかりと締め、左衿には金色の弁護士バッチがややくすんだ輝きを放っていた。髪型はきっちりとした七三で、整った顔立ちをしているはずだが、黒いサングラスを掛けており、表情が読み取りにくい。
「どうかしたか?」
七村が千野の方に顔を向けて訊ねた。
七村は、視覚障害者である。
やはり、身体障害者等級表による級別は二級で、障害年金の障害等級認定基準では一級に該当するということだから、ほぼ失明しているに等しい状態である。
だが、七村は、白杖だけで事務所内はもちろん、外も一人で出回ることができるそうだ。本人に言わせれば、目が見えなくなって却って、周りへの感覚が鋭くなったということらしい。今も、七村は、千野の座る位置を正確に察していた。
「所長さんよ。この姉ちゃんが、どうでもいいことを根掘り葉掘り聞いて来て、申請書を書いてくれねえんだよ。何とかしてくれよ」
「なるほど……」
千野の姿が見えていないからだろう。七村は彼を前にしても全く臆する様子がない。どう見てもヤクザとしか思えない千野の姿をしっかりと見ることができれば、七村とて、この男の依頼を引き受けようとはしなかったはずだ。と穂香は思った。
七村の左手が穂香の左肩をがっしりと掴んだ。
「末永。謙太郎君は、君と同じく若くして中途失聴したんだ。障害の程度も君と全く同じだ。少々、乱暴な所はあるかもしれないが、突然、耳が聞こえなくなった若者の苦しみは君がよく分かっているだろう」
穂香はやはり、七村の口の動きを読み、彼の言ったことを、おおむね理解した。
「しかし、所長……。この方は……」
「見た目で人を判断するな。謙太郎君が善良な心の持ち主であることは、私には分かる。頼まれたとおりに、申請書を書いて市役所に持っていきなさい」
「いいえ。所長。この方は明らかに詐病です。決して耳は悪くありません。本当に耳の聞こえない私だからこそ分かるんです」
「末永!」
七村が突然、怒鳴り声を漏らした。穂香には、その声が聞こえないが、強張った顔つきからして、彼がどなったのだということは分かる。
「はい!」
「お前は医者なのか!」
「いいえ。医者ではありません。ですが……」
「医者でもない者がどうして詐病だと診断できる!医師の診断書には、治療不可能な感音性難聴でほぼ失聴していると書かれているんだろう?その医者が詐病を見抜けなかったとでも言いたいのか!」
「いいえ……。ですが……」
「診断書を書いたのはどこの病院の何という名前の医師だ!」
「山久地クリニック――内科、耳鼻科、眼科、精神科――の院長山久地信夫。耳鼻科医師です」
「そうだ。山久地クリニックが何年前からやっているか知っているのか?山久地先生の耳鼻科医師としてのキャリアがどれほどか知っているのか?」
「いいえ……」
「山久地クリニックは十年前からやっている。山久地先生は私の友人で、彼の耳鼻科医師としてのキャリアは二十年以上になる。その山久地先生が詐病を見抜けなかったとでも言いたいのか!」
「いいえ……」
「だったら、医師の診断にけちを付けるな!依頼されたとおりに、申請書を書け!」
穂香は歯を食いしばって目を伏せた。
「まあまあ、所長さんよ。それくらいにしとけ。姉ちゃんが泣きそうな顔しているぜ」
千野がせせら笑いの声を漏らしながら、七村の肩を叩いた。
「謙太郎君。すまなかったね。君はもう帰って構わない。あとは私が責任を持って、末永に申請書を書かせよう」
「頼んだぜ。所長さんよ。俺は外回りして一稼ぎしに行かねえとならねえんだ」
「仕事の邪魔をして悪かったね」
「ああ。後はよろしくな」
千野はそう言いおくと肩をそびやかしなから、事務所から出て行った。入り口のアルミ製の引き戸がバタンと閉まる時の振動を穂香も感じることができた。
「さっさと書け!」
七村はそう怒鳴ると、自分の机に戻った。
※
その事務所の表看板には、営業代行会社アポイントサービスとあったが、事務所の中は、がらんとしており殺風景な雰囲気だった。
営業代行会社とあるにも拘らず、営業成績を示すグラフの類はない。
入り口のドアは分厚い鉄製の扉で、扉の手前には応接用のセット。その奥には、事務用の机が向かい合わせに置かれているが、書類やノートパソコンなどの事務用品の類は全くない。固定電話が一つあるだけだ。
事務所の片隅に折り畳み式のローテーブルが置かれ、割り箸の束の入った袋が山積みになっているだけだった。
六十前後の男が応接用のソファに深く腰を下ろして、紫煙をくゆらせていた。
剃り込みのある白髪交じりの短髪に、口髭を蓄えた強面顔。中背ながらも筋骨隆々とした体格をしている。白シャツに地味目のネクタイを締めているが、身に付けているスーツは高級品で、左腕からはブランド物の金時計がちらついていた。
一応、中小企業の社長という風情を装っているが、只ならぬ雰囲気を醸し出しており、堅気の男ではないことは一目で分かる。
ノックして事務所に入った千野謙太郎はその男の傍らに立って一礼した。
「謙太郎。遅いぞ。どこに行っていたんだ?」
金なし、コネなし、実務経験なし。だけど熱意だけは誰にも負けない!即独新米弁護士が、障害者をコケにし、障害年金を不正受給する暴力団顧問弁護士を成敗!悪用厳禁!
暴力団による障害年金の不正受給――。それも百万円や二百万円の話ではない。
組員一人あたり年間一千万円。組全体では数千万円以上の障害年金が不正にかき集められて、暴力団の資金源に組み込まれている!
正義感あふれる新米弁護士三文純一の事務所に、障害者問題を専門に手掛ける法律事務所で働いている社会保険労務士末永穂香がそのような情報を持って助けを求めてくる。
暴力団の不正受給を告発しようとしたところ、組員に襲撃された挙句、勤務先の法律事務所からは、穂香自身が不正受給を主導していたものとみなされて、告訴されそうになっているのだという。
純一らが調べを進めると、一人の暴力団組員による単純な障害年金の不正受給ではなく、クリニック、障害者作業所、法律事務所、半グレ集団が関与する大きな事件であることが明らかになる。
さらに、過去にも、不正を告発しようとした女性社会保険労務士が、失踪していることが判明。
純一たちも、拳銃やナイフで武装した暴力団や半グレ集団の襲撃を受ける。
果たして、純一たちは、穂香を守り切り、不正を告発することができるのか……?
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
大滝 七夕
法学部在学中に行政書士、宅建等の資格を取得し、卒業後は、行政書士事務所、法律事務所等に勤務する傍ら、法律雑誌の記事や小説を執筆し、作家デビュー。法律知識と実務経験をもとにしたリーガルサスペンスを中心に、ファンタジーや武侠小説などを執筆している。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)