武侠小説 東京開封府天狗伝説

投稿者: | 2020年12月4日

冒頭部抜粋

 一、求賢幇

 東京開封府内城の城門朱雀門の傍らに建つ己の役宅を出た男は、事件現場へと急いだ。
 身の丈は六尺ばかり。豹のような男である。とりわけ、地面を蹴る脚の力強さは、並外れており、一蹴りで一丈は先へ進んでいる。堂々たる体躯に彫りの深い精悍な顔立ち。目には、静かに獲物を狙う豹のような冷徹な光芒が浮かぶ。黒い官帽を被り、紺碧の長衫をなびかせている。腰に佩いているのは、柄頭から石突まで三尺五寸はありそうな日本の太刀である。柄と鞘は黒漆を塗っただけの質素な「黒漆太刀拵」であり、実戦に用いる太刀であることは一目瞭然。さらに、二尺五寸の鉄鞭(鞭と言ってもしなる物ではなく、十手のような鉄の棒)が差してあった。
 その男を追いかけるように、邸宅の門から一人の少年が駆け出た。粗末な土色の袴褶を身に付けている。男に遅れじと駆けているが、距離は開く一方である。時折、路地をごった返す人々とぶつかりそうになり、たたらを踏んでいるのでなおさらだ。
 一方の男は、人ごみの中を、間隙を縫うようにして疾駆し続ける。一歩たりとも、足を止めることはない。
「ちっ……城門が開く前に、知らせが来ればよかったのだが……」
 男が、路地にごった返す人々に目をやって舌打ちした。
 時は北宋の神宗の時代。都の東京開封府は、人口百万ともいわれる世界最大の国際都市である。水運が整備されて国中の物資や人々が集まり、昼夜を問わず騒がしい。
 とりわけ、城門が開かれる早朝は、旅人や城壁の外側に住む人々が行列を為してなだれ込んでくるために、より一層混雑するのである。
「仕方ない……」
 男は、突如として地面を蹴ると宙に舞った。
 男の周囲にいた人々の間からどよめきが起きた時には、男は、路地に沿って林立する建物の屋根から屋根へと、それこそまるで豹のように駆けていた。
 少年が屋根を駆ける男を見上げて、
「さすが!師父!よし、おいらも……」
 少年も地面を蹴って、跳躍した。幼い少年にしては、よく飛んだ方だ。だが、高さが足りずに、屋根に足が届かない。
「ああっ!」
 と哀れっぽい悲鳴を漏らした少年は、地面に落下していた。あわや、地面に叩きつけられるかという時、
「キャァ!」
 という娘の悲鳴が少年の胸元から響いた。少年が地面にいた娘に抱き付き、娘が少年を突き飛ばす。それがために、少年は顔から地面に突っ込まなくて済んだし 、娘も辛うじて、少年に押し倒されずに済んだ。
「ごめんなさい!小姑娘……」
 少年が胸をさすりながら、その娘を見やると、同じ年ごろの幼い娘である。桃色の小奇麗な襖裙をまとっているので、そこそこの家柄の娘であろう。娘は、頬を真っ赤にして眉間に皺を寄せると、少年の鼻さきに指を突き付けた。
「いきなり、何をするの!役人を呼ぶわよ!」
「ごめんなさい!ごめんなさい!小姑娘。でも、役人なんて呼ばなくていいよ。おいらは、役人様の下働きをしているから……」
 少年が、慌てて、両手を合わせて頭を下げた。
「一体どこの誰なの!あなたのことを父上に言いつけて懲らしめてもらうわ!」
「正直に言うから……。おいらの主人は、緝捕使臣(捕盗役人。八品官の武官)の源観察様だよ……」
 娘が、アッと口に手を当てて目を丸くした。
「源宗隆、字は天狗。江湖では天狗殺法の源観察と呼ばれているお方なのね……」
「そうさ。おいらは、源観察様の下で、捕り手の見習いをしている欧陽堅と言うんだ」
「ごめんなさい。失礼なことを言ってしまったわね。私は、八十万禁軍教頭(近衛師団の武術師範。但し官位はなく兵卒に過ぎない)田鎗忠の娘、田蓉よ。父上も、源観察様のことは尊敬しているわ」
 田蓉が表情を緩めて抱拳すると、欧陽堅もほっと溜息をついて抱拳を返した。が、田蓉の表情はすぐに険しさを取り戻した。
「だからと言って、あなたのことを許すわけじゃないわ!」
「ごめんなさい!ごめんなさい!わざとじゃないんだ……軽功に失敗して」
 欧陽堅が田蓉に責め立てられている時、男――緝捕使臣の源観察こと、源天狗は、既に事件現場にたどり着いていた。
 一丈ほどもある高い壁に囲まれた高級官僚の壮大な館である。その館の門前に立った時から、血の臭いが濃く漂っていた。
 門を遠巻きにして、野次馬たちが囁き合っている。中には大胆にも、門の内側を覗き込もうとする者もいたが、水火棍を手にした下っ端の捕り手によって遮られている。
 源天狗が門をくぐると、石畳が敷かれ、松などが植えられて整備された庭のあちこちに、槍を手にした血まみれの遺体が転がり、地面も壁も血が飛び散るという有様である。
 源天狗が、暫し、惨状を眺めやっていると、初老の小男が進み出て、抱拳してきた。身の丈五尺ばかり。まるで皮と肉ばかりかと見まごうほどに、しなびれた体つき。こけた頬に細い目つきの男だ。粗末な土色の袴褶を着ており、一見するとそこらをさまよっている浮浪者のようにも見える。が、手には、水火棍を有しているので捕手役人なのだろう。
「源観察。館の者どもは、三十人ばかりいたようですが、皆殺しにされており、生き残った者はいないようです。遺体の傷跡からして、槍によって刺殺されたものと思われます」
「また、槍か……。近頃、槍で刺殺される事件が相次いでいる。しかも、やられた連中は皮肉なことに誰もが、それなりに名の知られた槍の遣い手だった。ここの館の主も?」
「はい。この館の主は文官ですが、武芸にも精通しておりまして、館内に道場を構えておりました。ご自身はもちろんのこと館に仕える者たちも、悉く、槍を遣いこなすようです。しかし、どうやら、下手人を返り討ちにできた者は一人もいないようで……」
「やはり、下手人は一人なのか?」
「そう思います。一人の者を押し込もうと取り囲んだと思われる立ち位置で倒れている遺体が散見します。そうなれば、押し込んだのは館の者よりも少人数。あるいは一人かと……」
 源天狗は、館の奥に進んで、細い目つきの男の言葉通りであることを確認した。
「お前の言うとおりのようだな。何聞」
「はっ」
 細い目つきの男――何聞が礼儀正しく一礼した。
「門は閉ざされていたのか?」
「はい。朝、出仕した奉公人の話では、門には閂がかかっていて、押しても叩いても反応がなく、梯子を駆けてよじ登り、中を検めたところ、このような惨状であったと」
「となれば、下手人は、門から出て行ったのではなく、軽功で高い壁を乗り越えて出て行ったということになるな。江湖の武芸者であることは明白だ」
「はい」
 中庭に面した回廊を抜け、奥まった部屋にたどり着いた。開け放たれた観音扉の奥を見やると、豪華な飾りつけからして、館の主が、客人と面会するための主殿だと分かる。
 主人の席にこの館の主らしい男が、血まみれになってもたれ掛っていた。
 文官の割には、角ばった荒々しい顔つきに、筋骨隆々とした巨漢である。空色の円領袍の中心部が穿たれ、そこから血が噴出した跡が部屋のそこかしこに残っている。やはり、足元に槍か転がっていた。
 光を失った目は、恐怖のためか驚きのためなのか、カッと見開かれたままである。
「あの男が、館の主である高清か?」
 源天狗が床の血の跡を避け、宙を舞うような足取りで奥に進む。
「はい。朝廷では、王安石の新法を指示している立場だそうで、それなりの地位にあったとか」
 何聞の足取りも、源天狗と同等……いや、それ以上に軽快である。
「そう言えば、偶然なのかどうか……これまでに殺された者の多くが、王安石寄りの人間であったな」
「はっ……ですが、司馬光側の人間もいますので、新法をめぐる朝廷内の諍いとは無縁かと……」
「確かにな……。新法を止めたいなら、本丸である王安石を刺殺すれば足りること。一人、あるいは少人数で、これほどの殺戮ができる輩だ。王安石の館に忍び込んで暗殺することなど、そう難しくは あるまい」
 源天狗は、高清の遺骸の前に立つと、胸元の傷口を検めた後、椅子の背もたれに目を向けた。血がこびりつき、穴が開いていた。さらに奥の壁に目をやると、何かが突き刺さったような跡がある。
「何聞、見てみろ。下手人が繰り出した槍は、高清の胸を刺すばかりでなく、貫いたようだ」
 源天狗が指さすと、何聞は、驚いたように目を丸くした。
「まさしく……。先日の現場でも、槍が貫いた形跡がありましたな」
「このように体を貫くほどの槍技を繰り出せる人間は江湖でもそう多くはいまい。やはり、同一の人物による犯行と見てよかろう」
 源天狗は、床の血を避けながら宙を舞うような足取りで回廊へ出た。何聞も同じような足取りで後に続いてきた。
「盗まれた物は?」
 源天狗が訊ねると、何聞は間髪置かずして答えた。

武侠小説 東京開封府天狗伝説

 北宋、神宗の御世。仏道より武芸が好きな鞍馬寺の成円は留学僧として大陸に渡るが、還俗して源宗隆と名乗り、東京開封府で緝捕使臣(捕盗役人)を務めることになった。西夏が宋の領土を侵さんとして陰謀を張り巡らしていることを知り、東京開封府知事の依頼を受け、仲間たちと救国の秘密結社求賢幇を結成する。中国を舞台にした歴史ファンタジー小説。

 時は北宋の神宗の御世。各地で賊が跋扈し、西夏を初めとした北方異民族の脅威に晒されていた。八十万禁軍は形ばかりの軍で賊を成敗することもままならない。内憂外患の危機を憂えた東京開封府知事曹孔明は、皇上より令牌を賜り、救国の秘密結社求賢幇を結成した。
 一方、絶技閃電三法の遣い手関寧明は、西夏の後押しを受けて秘密結社興夏幇を結成し、宋の賊や武芸者を糾合し治安を乱さんとしていた。素顔を隠した槍大喬、弓小喬の義姉妹を手先とし、開封で、八十万禁軍教頭田鎗忠ら、名の知られた武芸者を虐殺し、開封郊外に眠っている大盗賊の遺産や伝説の武器を狙う。
 源宗隆、字は天狗は、日本の鞍馬寺で太刀術を極めた日本人でありながら、東京開封府で緝捕使臣(捕盗役人)を務めている。曹孔明の勧誘を受けて、求賢幇に加わったが人材も財源も皆無という有様。仲間を集め、賊から財貨を奪取することを当面の目的とする。
 開封では義賊が悪徳妓楼を襲撃し、客の男や経営者を皆殺しにし、妓女たちを逃がし、金銀を奪う事件が起きた。源天狗らは、義賊を味方に引き入れて、人材と財源不足を解消しようと考える。事件を追う中で、巨漢なのに格闘はできず弓しか使えない黄一矢、絶世の美女なのに重い鉄球を振り回して人の頭を砕く劉彩香、毒物に精通し変装術の達人である妓女陳盈盈らと出会い、求賢幇の人材が充実する。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
大滝 七夕
法学部在学中に行政書士、宅建等の資格を取得し、卒業後は、行政書士事務所、法律事務所等に勤務する傍ら、法律雑誌の記事や小説を執筆し、作家デビュー。法律知識と実務経験をもとにしたリーガルサスペンスを中心に、ファンタジーや武侠小説などを執筆している。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)